HIBIKI FP OFFICE(愛知県名古屋市のFP事務所)代表ファイナンシャルプランナーの重永です。

新紙幣では5千円札の肖像画に津田梅子が選ばれました。

現在の樋口一葉は紙幣史上2人目の女性が肖像画として選ばれましたので、津田梅子は紙幣史上3人目ということになります。

どういう人物なのか知っておかないと恥ずかしいですよ。

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【日本初の女子留学生】

帰国子女の元祖ですね。

なんと6歳で岩倉使節団(歴史の授業で聞き覚えがある。。)とアメリカへ留学しました。

1871年(明治4年)のことです。

大政奉還の数年後です。

幼い頃から英語や外国語に触れていたので、日本にいる家族への手紙が英語になってしまう弊害もあったそうです。

スーパーエリートになった津田梅子は、11年の留学生活を終えて帰国し、様々な思いを抱えるようになります。

【カルチャーショック】

アメリカでの生活の方が長かったので、日本語はもちろん、日本のマナーも忘れていました。(ほぼアメリカ人みたいなもんですよね)

そんな中「女性の働く場所がほとんどないこと」にカルチャーショックを受けます。

今でこそ女性が社会に出て働くことは当然のことになっていますが、当時は家庭に入って家を守る人ばかりだったのです。

津田梅子は「女性の地位向上をしなければ」と思い、そのために働くことを決心します。

【伊藤博文との出会い】

20歳の時に、初代総理大臣の伊藤博文と出会います。

彼の勧めで華族女学校の教師となりましたが、すぐに留学してしまいます。

華族=元公家・元武家、つまりお嬢様たちが通う学校です。

当時はまだ庶民と華族の間にかなりの格差があったそうです。

雰囲気というか、気風に馴染めなかったのかもしれませんね。

【女子教育の重要性をさらに強く感じる】

34歳の時にヘレン・ケラーを訪ねたり、イギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールヨーク大主教とも会見しました。

彼女らと会うことによって、女子教育を推進することへの熱い想いは増していきました。

【高等女学校令・私立学校令の公布】

法的にも女子教育への足がかりができました。

「津田塾大学設立」

1900年に現在に続く津田塾大学(当時の名称は女子英学塾)が設立されました。

女性が教育を受けること、社会に進出することに生涯を捧げました。

【生涯独身を貫く】

縁談はたくさんあったそうですが、「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」とのちの手紙に書くくらいですから絶対結婚したくなかったのでしょう。

今でこそ独身は多いですが、当時(とくに女性)で結婚しないなんて世間からどれだけバッシングを受けたことか。。

当時の結婚観では、せっかく海外で学んだことが発揮できない弊害にしかならないと考えたのかもしれません。

「津田塾大学にあるジンクス」

1929年(昭和4年)に脳出血で亡くなりました。

津田梅子のお墓は津田塾大学の構内にあるのですが、なんと「お墓参りをすると結婚できなくなる」というジンクスがあるそうです。

 生涯独身を貫いたパワーを、、、ということでしょうか。

信じるか信じないかは、、、はい。

【まとめ】

女性初の留学生として海外に渡り、女性の社会進出のための教育に障害を捧げたからこそ「女子教育の先駆者」と呼ばれています。

強い信念を持ち続けた結果、今の“当たり前の社会“があります。

間違いなく時代を変えた人ですね。